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2008年08月07日

ススキノ──BACK TO 「1945」

ススキノ──BACK TO 「1945」
「寺町」としても知られるススキノ。終戦当時も寺の境内の四つ角あたりに街娼がよく佇んでいたという(写真は水子供養で知られる豊川稲荷の鳥居付近)


 この8月は15日の「終戦記念日」をはじめ、6日の「広島原爆の日」、9日の「長崎原爆の日」など戦争関連のメモリアルデーが、いろいろとある。そんななか、14日に発売となる9月号では「終戦。その時、ススキノは」と題した特集を組んでみた。その特集の前文の一節に私は次のように書いた。

 ──太平洋戦争が終結し我が国が敗戦国となった昭和20年代初頭のススキノは、いかなる様相を呈していたのか? 戦前は「北日本一の豪華さを誇る」と言われた松竹座(大正15年~昭和45年)を代表とする映画館(活動写真館)や女給によるサービスが売りだったカフェーが競い合って活況を呈していたマチは、戦火の激しさが増すとともに歌舞音曲、飲酒の禁止、深夜営業時間の短縮など相次ぐ統制により、昭和20年にはすべての飲食店が休業に追い込まれていったという──。

 大規模な空襲被害こそ免れたが、終戦直後のススキノは歓楽街のイメージとはほど遠い「荒野」そのものだった。ネオンなどはひとつもなく、街灯の裸電球が木造の建物を薄暗く照らすだけ。商売と言えばツブ焼き屋台や露天市ぐらいなもの。夕闇迫れば引き揚げ兵士や米軍相手のポン引きが横行し、無法地帯に近いありさまだったという。

 文献を読み、当時を知る人に取材してあらためて思ったことは、なまじ頭でっかちに「戦争反対」を叫ぶより、地道に過去に学ぶことの方がよほど大事だということだ。

 喰いあぶれてススキノの街角に立ち、米兵に舌足らずの英語で「ヘーイ、ドンチュ-・ファック・ミー?」と声をかけ糊口をしのいでいた女性たち。そのリアリティの一端にでも思いを馳せることができれば、よほど戦争の本質が見えてくるのではないか──

 この8月は、それぞれが暮らす土地で「1945」にバックしてみてはどうだろう?


Posted by 北方ジャーナル at 13:25│Comments(0)
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