2022年05月24日
北方ジャーナル6月号の誌面から 北海道フォトエッセイ72「太平洋に北海道の背骨が沈み込む “なにもない春”の襟裳岬」
襟裳岬(4月19日撮影・©︎白井暢明)
いま北海道は夏に向け、生命が全開となり色鮮やかな世界へ変貌を遂げている。そんな中、今月号の北海道フォトエッセイで筆者の白井氏はあえて荒々しい自然の現場──襟裳岬でのショットと一文を寄せてくれた。4月中旬に訪れた、“なにもない春”から白井氏が感じ取ったものとは何だったのか。(く)
いま北海道は夏に向け、生命が全開となり色鮮やかな世界へ変貌を遂げている。そんな中、今月号の北海道フォトエッセイで筆者の白井氏はあえて荒々しい自然の現場──襟裳岬でのショットと一文を寄せてくれた。4月中旬に訪れた、“なにもない春”から白井氏が感じ取ったものとは何だったのか。(く)
襟裳岬灯台(4月19日撮影・©︎白井暢明)
「襟裳の春は、何もない春です」
これは、中年以上の人なら誰でも口ずさめる森進一のレコード大賞受賞曲『襟裳岬』の一節である。
初春のある日、この歌詞の通り、本当に何もないかどうかを確認しようと、ここを訪れた。
それにしても、日高門別に出てから海岸沿いを走る道のりの気の遠くなるような長さ…。3時間弱走り続けてやっと岬にたどり着いた。
高さ60mの断崖絶壁の上から見えるのは、北海道の背骨が大海に沈み込む壮大で男性的な風景、これぞ大自然の雄姿だ。双眼鏡で覗くと岩礁の上には多数のゼニガタアザラシの姿も見える。
一方で人の姿は皆無、その意味では確かに「なにもない」風景だ、この曲の立派な歌碑の他には。しかしこの表現は、ここが「黙りとおした歳月を拾い集めて暖めあう」場にすぎないという、大自然の中ではちっぽけな生き物、人間の精神世界を不当に拡大した存在論ではないか。
私はこの風景を前にして、むしろ壮大な自然の中での人間存在の小ささ、「なにもなさ」を感じ取った。この曲の歌詞はひょっとして、むしろ人間存在のはかなさを間接的に「何もない」と表現したのかもしれない。もしそうだとすれば、そのニヒリズムもなかなかのものだ。
目の前の岩礁ははるか沖合まで連なっている。その先で暖流の黒潮(日本海流)と寒流の親潮(千島海流)がぶつかり合い、時に濃霧を発生させる。そのための霧笛も備えた白くてチャーミングな灯台が私の背後から岬を見下ろしていた。
Posted by 北方ジャーナル at 23:18│Comments(0)
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