2021年03月25日
本誌短期連載「台湾防疫日記」を特別公開①。異色の映画監督がコロナ禍の中で台湾という国で見たもの、聞いたこと
台湾到着後、隔離ホテルで食事をとるくつした企画
発売中の本誌4月号に掲載した、くつした企画による「台湾防疫日記」の前篇を特別公開する。無節操制作団体との誉れが高い彼らを代表する黒田拓監督が、あろうことかこのコロナ禍の中、やんごとなき理由で台湾に渡航することになった。本寄稿はその一部始終の私的ルポと言えるものだ。渡航制限が敷かれている中、苦労の末に黒田監督は昨年末に台湾に渡った──。(く)
台湾衛生当局とやりとりしたメール
『渡航と隔離とヌーディスト』
11月某日
諸事情あって台湾に渡らなくてはいけなくなった。昨今の事態を考えるとこれまでのように航空機のチケットと旅券があれば、はいOK、というわけにはいかないだろう。幸い札幌には領事館にあたる『台北経済文化交流処』があるので、とにかくそちらでまず現況と手続きについて尋ねてみることにした。
ところが初っ端からつまづいた。札幌駅北口直結の交流処の扉は固く閉ざされている。今日は定休日ではないはずだ。扉の張り紙をよく読んでみると入室には予約が必要であり、問い合わせには電話でのみ対応する、とある。
その場で電話をかけてビザ申請について聞いてみることにする。ひと気のない交流処前の廊下で、妻に家を閉め出された甲斐性のない宿六の気持ちになって、背中を丸めてこっそり話をする。渡航目的も限定され、発行されるビザも出入国が1回のみ許されるシングルのみ。やはり事態はかなり厳しい。
必要書類の準備が整い次第改めて予約をすることにして電話を切った。振り返ると恰幅のいい背広姿の一団と目が合った。絵面だけ見れば門前払いだ。なんとなくしょぼくれた気持ちになってひっそりビルを後にした。
11月友引
書類の準備は順調だが航空券が手に入らない。ビザ申請の際には当然渡航期間の明示が必須だから早めに押さえておきたいところだが、この時点で新千歳空港から台湾への直行便はなく、飛んでいた飛行機は国内大手1社と海外LCCが数社のみ。しかも少ない便数を新千歳から東京、東京から台湾と繋ぐものだから現地につくまでの時間がとてつもなく長い。
最長で27時間、最短でも10時間弱。これまで3時間強で着いていたかの南の島は今やはるか彼方だ。結局欠航の関係で当初の予定よりも渡航は3週間以上遅れ、12月24日クリスマスイヴとなった。のっぴきならない案件もあったのだが、こればかりは如何ともしがたい。
昨今は発達した通信手段のせいで海を越えた人々ともほいほい画像つきで会議ができたりするけれども、実際に移動するとなるとここまで遠くなっていたとは。ここに来て世界はびっくりするほど広くなった。本来の姿に戻ったといえばそうかもしれない。
11月末日
久しぶりに訪れた交流処には特に変わったところは見受けられなかった。手続きは渡航目的の再確認の後、必要書類と旅券を渡してすぐに終了。
「早ければ2日後には発行しますので」
下準備が物々しかった割には随分とあっさりしている。事実週末にはビザが届いた。
12月吉日
渡航にはPCR検査が必要だ。台湾では11月中旬に検査のタイミングが『入国前3営業日以内』へと変更になった。念のため交流処で病院を紹介してもらえないか尋ねてみたところ、
「○○病院は慣れていて対応も早いみたいですけど、ちょっと高いですね…」などと、台湾の方らしく主に価格帯を基軸にしたレビューを話してくださったが、そもそも相場が分からない。そこで、ウェブ上で札幌市内の検査可能な病院を探してみることにした。
なるほど、値段もスタンスもまちまちだ。特設ページを作った上で『うちではやっていません』ということを高らかに宣言する病院もあれば『ウェブサイトで説明している内容が全てですので電話問い合わせは受け付けません。あと検査希望者は病院内に入ってこないでください。いいですね!』というような、気持ちは分かるがナーバスな様子の病院、そしてこなれた感じだが値段がやたらと高い病院。
どこがいいのか分からないので、餅は餅屋、医療関係者に聞いてみたところ、その方が薦めてくれたのはなぜか小児科だった。少々面食らったが結局そこにお世話になることにした。恥ずかしながら勉強不足のため、どんな検査をされるかは分からない。ならばお子さん相手の医師のほうが優しくしてくれるかもしれないというのが決めた理由だった。たとえ五十路間近のおっさんでも初めては優しくして欲しいのだ。
12月某日
検査日の当日。件の小児科へとやってきた。にこやかに対応してくださった受付の女性に促されて入った待合室は子どもの緊張をほぐすためなのか完全個室だった。医師が各部屋に訪ねていって診療する形式のようだ。
室内はお子様が快適に過ごせるようにできているわけだから、当然診察台兼ソファーはとても背が低く座ると必要以上に足が余るし、目の前のテレビモニタにはお子様向け番組が映し出されていて、粘土人形たちが楽しげに踊っている。
ふと気づくと自分だけひどく場違いであることに気づくタイプの悪夢を観ているような気分でいると、突然隣から火のついたようなお子様の泣き声が聞こえてきた。子どもの泣き声は万人をして不安にさせる。自分もあんな泣き声を上げるほど痛い事をされるのだろうか。痛かったら泣いてもいいだろうか。
思いを巡らす間もなく移動式の診察机に乗った先生が看護師さんを伴って登場した。
「はーい、では、検査を始めますねー」
直前までお子様を診察していた余韻があるのか、先生の口調は優しい保育士のそれだったが容赦はなかった。いきなり脳に届くほどに長い綿棒を取り出して、
「はい。ちょっと鼻の奥まで行きますよー」
と言うや、ぐいとそれを左鼻に突っ込んできた。
「お疲れさまでしたー」
確かに痛いし、鼻への刺激で左の目から涙がこぼれたが、泣かずには済んだ。
12月24日
クリスマスイヴ。ビザもある。陰性の結果を明記した証明書も無事いただいてきた。出国の準備は終わったが、肝心の先方に到着したあとのことは殆ど分からない。
どのような手続きがあってどのような過程で予約した隔離ホテルまで連れて行かれるのかについては、当然(いつもの台湾らしく)公式な説明はどこにも見当たらないし、現地の人々に聞いてみても一様に『隔離があるということ以外は知らない』という。国内にいる限りは入国者の扱いとは無縁だろうから、これは当然のことだろう。
いま分かっているのは、現地に着いたらホテルでの2週間の隔離が待っている、ということだけだ。
新千歳空港から国内線で羽田に向かい、そこから台北松山機場に飛ぶ。それが今回の旅程だ。飛行機に乗る際にふと振り向くと、建物の中には一切人影がなかった。それはもう見事なもので、撮影のために貸し切ったロケ現場のようだ。機内も同じで、座った機内中ほどの席から後に乗客はなかった。
到着した羽田空港国際線ビルもいつになく人影まばらだった。施設内には江戸の街並みを模したショッピングモールがあるが、店の殆どに『一時休業』の張り紙がなされていてさながらシャッター街だ。そのそこかしこで国を出る予定のわずかな人々が早朝出発の便を待って思い思いに眠っている。自分もそこに混じって仮眠をとることにする。
(続きは近日公開予定)
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Posted by 北方ジャーナル at 23:10│Comments(0)
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