2009年06月22日
第1回『私が繁華街に住んだワケ』
エッセイ
夏井功(身体障害1種1級)の『夜を駈ける車イス』
※この記事は北方ジャーナル2007年5月号に掲載されたものです。
『障害者』として受ける制約
私は障害者である。日常の多くを車イスの上で過ごし、何をするにも人の手を借りなければならないような、いわゆる「重度」の障害者である。
「重度の障害がある」といってもそれはそれ、世間の多くの人々と同じように生活し、仕事を持ち、時にはススキノなどに出て遊ぶ。違いがあるのはそれらを車イス上で行ない、そこにヘルパーなどの「介助」が必要というだけで、その点をのぞけば何ら変わりのない、ただのスケベな中年男である。
そうはいっても実際「障害を持つ」というのは不便なもので、例えば車イスを使っているというだけで階段はもとよりちょっとした段差でさえ大きな障壁となる。周囲に誰もいない時にこの障壁にぶつかると、どんなに頑張ってもそこから先へいくことが出来なくなるわけだから困ったものだ。
高齢化社会のせいか、バリアフリーやユニバーサルデザインなどの「誰もが使いやすいモノ、まちづくり」に対する意識が少しずつ広がってきてはいるが、個人の生活においては未だ十分な状況には程遠い。そのため私や多くの障害者は、福祉制度や地域資源を活用しつつ、それぞれが個々に様々な工夫をしながらやっとの思いで生活している。私がかつて、それまで「遊ぶ場所」でしかなかったススキノを生活の場とし、これから書く多くのエピソードを経験することとなった理由もそこにあるといえる。
生活の場としてのススキノ
私のような車イスの障害者が生活の場に『繁華街ススキノ』を選ぶということに不自然さを覚える人もいるかもしれない。たしかに私はススキノに関わる仕事に従事しているわけではないし、「客として」赴く以外にススキノとの接点はない。それをあえて「生活の場」として選んだのには訳がある。
私のように車イスで生活する者にとって、段差や階段同様大きな障壁となるものの一つに「雪」がある。一年の約三分の一を雪に覆われて生活するというのはそれこそ死活問題で、この期間の移動手段の確保こそ最大の課題といえる。
車イスを使っていてもある程度手が自由に使えれば自家用車を自ら運転することが出来るだろうが、私に限っていえば運転免許が取得できるほど障害は軽くない。それを補うものとしてタクシーや福祉移送サービスなどがあるが、費用や利便性などを考えるととても日常的に使える代物ではなく、結局車イスで「歩く」ことが日常の移動手段とならざるを得ないのだ。
そうなると「どこに住むか」によって生活は大きく変わる。
以前、札幌市西区の住宅街に住んだ時などは、冬場はほとんど家から出ることが出来なくなるほど雪が積もりずいぶんと不自由な想いをした。当時はロクに仕事をしていなかったので通勤もほとんどなく家に引きこもっていることが多かったが、そんな生活をいつまでも続ける訳にもいかない。北海道で生活している以上避けて通れないこととはいえ、冬でも自由に出掛けられる術はないものか?
私が普段乗っている車イスは電動式で、たとえ雪が積もっていてもある程度の除雪がされていたりロードヒーティングが設置されていれば走ることが出来る。これらの条件がある程度満たされていて、かつ私にとっては唯一日常的に利用できる地下鉄が徒歩圏にある地域…。そう、この条件に最も近い場所こそ繁華街ススキノなのである。除排雪の環境はおそらく市内で最も良いといえるだろうし、歩道の幅は広く、十分ではないにしろロードヒーティングも設置されている。その上地下鉄駅も近く、乗り換えるのが面倒であれば三線が交差している大通駅まで徒歩で行ける。さらに昼夜問わず人通りがあるので、いざという時には比較的人の手を借りやすい。…と考えていくと、「ススキノに住む」というのが最も良い選択だと思ったのだ。
ここ数年、中島公園周辺に高齢者をターゲットとしたマンションが何棟か建設されたが、このことからもススキノ周辺が障害者や高齢者などの「移動弱者」に優しい街であることが分かる。繁華街としてだけではない、生活の拠点としても、ススキノはとても魅力的な街なのである。
それでもやはり『快楽の街』
こうして私は生活の場をススキノへと移し、ねらい通りそれまでよりも格段に自由に動けるようになった。当然のことだが「遊び」に出掛ける機会も多くなり、それまで年に数回しか利用することがなかったススキノの繁華街も頻繁に利用するようになる。なんといっても私にとってはススキノが「おらが街」な訳だから当然といえば当然のことだが、同年代の友人らと連れだって、それまで行ったことがない店にも足を伸ばすようになると、新たな「障壁」があることに気が付いた。
ご存じの通りススキノにはニュークラやキャバクラ、風俗店など女性が接客する店が多くある。こういった店は居酒屋やカラオケボックスなどよりも比較的小さなスペースで営業しているところが多い。併せてそれらの店の入り口にはたいてい数段の階段が設置されている。以前何かの本で読んだが、入り口に数段の階段をつけることである種の異空間を演出する効果が得られるそうだ。店の雰囲気づくりはとても大事なことだが、そのためにわざわざ段差がつくられるというのは、車イスの私にとって迷惑以外の何物でもない。
さらに悪いことに、当時これらの店に車イス利用者が客としてくることはほとんどなかったため、店員もどう対応して良いか分からないようで、ちょっとした手助けがあれば利用可能な店でも「ウチではちょっと…」と入店を断られることがよくあった。彼らからすればどう接したらいいか分からないわけだから入店拒否もやむを得ず…と思うのだろう。その気持ちも分からなくはないが、私も客の一人である。客を迎え入れる側として多少でも工夫して欲しいものだ。
とにかく私がススキノに引っ越した当初、これらの店を利用しようとすると立て続けに入店を断られた。しかし私も男である。ススキノの歓楽街を楽しまず、拒まれたまま尻込みしているのは性に合わないし、私のスケベ心も収まらない。ススキノの住人となった私は、快楽を求め、友人らと連れだってこれらの店を回っては、ひたすら「入店交渉」を続けた。
やがてそれが私のライフワークになっていくのである。
<Profile>
夏井 功(なつい・いさお)
1968年、東京都千代田区生まれ。脳性麻痺で身体障害1種1級。高等養護学校を卒業後、施設生活、親元での生活を経て、20歳代半ばから一人暮らし。30歳代前半の3年間を札幌・ススキノ地区で過ごし、同地区内のバリアフリー化に尽力。結婚を機に豊平区に移転するも、のち再び独身となり、現在もたびたび電動車イスでススキノに出没している。1女の父
※この記事は北方ジャーナル2007年5月号に掲載されたものです。
私のような車イスの障害者が生活の場に『繁華街ススキノ』を選ぶということに不自然さを覚える人もいるかもしれない。たしかに私はススキノに関わる仕事に従事しているわけではないし、「客として」赴く以外にススキノとの接点はない。それをあえて「生活の場」として選んだのには訳がある。
私のように車イスで生活する者にとって、段差や階段同様大きな障壁となるものの一つに「雪」がある。一年の約三分の一を雪に覆われて生活するというのはそれこそ死活問題で、この期間の移動手段の確保こそ最大の課題といえる。
車イスを使っていてもある程度手が自由に使えれば自家用車を自ら運転することが出来るだろうが、私に限っていえば運転免許が取得できるほど障害は軽くない。それを補うものとしてタクシーや福祉移送サービスなどがあるが、費用や利便性などを考えるととても日常的に使える代物ではなく、結局車イスで「歩く」ことが日常の移動手段とならざるを得ないのだ。
そうなると「どこに住むか」によって生活は大きく変わる。
以前、札幌市西区の住宅街に住んだ時などは、冬場はほとんど家から出ることが出来なくなるほど雪が積もりずいぶんと不自由な想いをした。当時はロクに仕事をしていなかったので通勤もほとんどなく家に引きこもっていることが多かったが、そんな生活をいつまでも続ける訳にもいかない。北海道で生活している以上避けて通れないこととはいえ、冬でも自由に出掛けられる術はないものか?
私が普段乗っている車イスは電動式で、たとえ雪が積もっていてもある程度の除雪がされていたりロードヒーティングが設置されていれば走ることが出来る。これらの条件がある程度満たされていて、かつ私にとっては唯一日常的に利用できる地下鉄が徒歩圏にある地域…。そう、この条件に最も近い場所こそ繁華街ススキノなのである。除排雪の環境はおそらく市内で最も良いといえるだろうし、歩道の幅は広く、十分ではないにしろロードヒーティングも設置されている。その上地下鉄駅も近く、乗り換えるのが面倒であれば三線が交差している大通駅まで徒歩で行ける。さらに昼夜問わず人通りがあるので、いざという時には比較的人の手を借りやすい。…と考えていくと、「ススキノに住む」というのが最も良い選択だと思ったのだ。
ここ数年、中島公園周辺に高齢者をターゲットとしたマンションが何棟か建設されたが、このことからもススキノ周辺が障害者や高齢者などの「移動弱者」に優しい街であることが分かる。繁華街としてだけではない、生活の拠点としても、ススキノはとても魅力的な街なのである。
それでもやはり『快楽の街』
こうして私は生活の場をススキノへと移し、ねらい通りそれまでよりも格段に自由に動けるようになった。当然のことだが「遊び」に出掛ける機会も多くなり、それまで年に数回しか利用することがなかったススキノの繁華街も頻繁に利用するようになる。なんといっても私にとってはススキノが「おらが街」な訳だから当然といえば当然のことだが、同年代の友人らと連れだって、それまで行ったことがない店にも足を伸ばすようになると、新たな「障壁」があることに気が付いた。
ご存じの通りススキノにはニュークラやキャバクラ、風俗店など女性が接客する店が多くある。こういった店は居酒屋やカラオケボックスなどよりも比較的小さなスペースで営業しているところが多い。併せてそれらの店の入り口にはたいてい数段の階段が設置されている。以前何かの本で読んだが、入り口に数段の階段をつけることである種の異空間を演出する効果が得られるそうだ。店の雰囲気づくりはとても大事なことだが、そのためにわざわざ段差がつくられるというのは、車イスの私にとって迷惑以外の何物でもない。
さらに悪いことに、当時これらの店に車イス利用者が客としてくることはほとんどなかったため、店員もどう対応して良いか分からないようで、ちょっとした手助けがあれば利用可能な店でも「ウチではちょっと…」と入店を断られることがよくあった。彼らからすればどう接したらいいか分からないわけだから入店拒否もやむを得ず…と思うのだろう。その気持ちも分からなくはないが、私も客の一人である。客を迎え入れる側として多少でも工夫して欲しいものだ。
とにかく私がススキノに引っ越した当初、これらの店を利用しようとすると立て続けに入店を断られた。しかし私も男である。ススキノの歓楽街を楽しまず、拒まれたまま尻込みしているのは性に合わないし、私のスケベ心も収まらない。ススキノの住人となった私は、快楽を求め、友人らと連れだってこれらの店を回っては、ひたすら「入店交渉」を続けた。
やがてそれが私のライフワークになっていくのである。
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1968年、東京都千代田区生まれ。脳性麻痺で身体障害1種1級。高等養護学校を卒業後、施設生活、親元での生活を経て、20歳代半ばから一人暮らし。30歳代前半の3年間を札幌・ススキノ地区で過ごし、同地区内のバリアフリー化に尽力。結婚を機に豊平区に移転するも、のち再び独身となり、現在もたびたび電動車イスでススキノに出没している。1女の父
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北方ジャーナル4月号の誌面から 北海道フォトエッセイ70「下川町のアイスキャンドル」
北方ジャーナル12月号の誌面から 北海道フォトエッセイ「太陽の丘えんがる公園に広がる 虹のひろばコスモス園」
北方ジャーナル12月号の誌面から 連載「公共交通をどうする? 第113回 札幌市営地下鉄50年に想う」
特別掲載 くつした企画没ネタ供養シリーズ第3回 「解き明かされたレシピ。台湾先住民族風 謎の肉鍋」(後編)
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本誌公式ブログ特別公開 くつした企画没ネタ供養シリーズ 第1回 三笠で遭遇した、能面を売る謎の薬局(前篇)
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Posted by 北方ジャーナル at 09:58│Comments(0)
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