2009年06月14日
夕張出身のプロレスラー・三沢光晴氏死去
プロレス団体「ノア」社長で、2代目タイガーマスクだったことでも知られる三沢光晴氏(夕張生まれ・46)が昨夜、広島県内で行なわれた試合中の事故で亡くなった。バックドロップを受けたまま意識不明となり、一部報道では「頸髄離断」が死因、とされていた。「離断」とは何か。広辞苑を引いても出てこないのだが、その意味は何となく想像できる。格闘技に詳しいある治療師に電話して聞いてみると、「頸椎には動静脈も通っているし、脊髄も走っている。それが切り離されたということは、大変なことだ」と説明した。
筆者は三沢選手をテレビで見たことがある程度だが、かなりエグイ技の応酬が続く長時間の試合が人気を集めており、首をはじめ全身に大きなダメージを受けていたことは有名な話だ。投げっぱなしのバックドロップ、受け身の取れないスープレックス、ターンバックル(コーナーの金具を固定する器具)を目がけたパワーボムで、後頭部を激しく打ち付ける。凶器攻撃も有刺鉄線も爆発もないが、それはまさしく肉体のみを使った潰し合い、デスマッチそのものだった。
筆者は三沢選手をテレビで見たことがある程度だが、かなりエグイ技の応酬が続く長時間の試合が人気を集めており、首をはじめ全身に大きなダメージを受けていたことは有名な話だ。投げっぱなしのバックドロップ、受け身の取れないスープレックス、ターンバックル(コーナーの金具を固定する器具)を目がけたパワーボムで、後頭部を激しく打ち付ける。凶器攻撃も有刺鉄線も爆発もないが、それはまさしく肉体のみを使った潰し合い、デスマッチそのものだった。
全日本プロレス時代からリングアナとして三沢氏と行動を共にした、仲田龍氏を取材した「NOAHを創った男」(ベースボールマガジン社)という本がある。プロレス専門誌に連載されたもののようで、相当長期間、長時間のインタビューを行なっている力作だ。
三沢氏はジャイアント馬場の死後(1999年)に全日本プロレスの社長に就任するが、伝統を守ろうとするオーナー側の締め付けに嫌気がさし、仲田氏ら選手・スタッフ50人と共に、2000年に新団体「プロレスリング・ノア」を立ち上げる。元ディスコというホール「ディファ有明」に事務所と練習場を見つけ、日本テレビの放送権もノアが得ることになったが、昨今の格闘技ブームの影響もあってか、今年3月いっぱいで55年間続いた地上波のプロレス放送が打ち切りになってしまった。そうした厳しい状況下で、社長である三沢氏がリング上で亡くなってしまったのである。
ノアは今後も三沢社長の意志を継ぎ、興行も予定どおり続ける予定だという。残された選手とスタッフが、この苦境にいかに立ち向かうか、ぜひ注目していきたい。 (て)
三沢氏はジャイアント馬場の死後(1999年)に全日本プロレスの社長に就任するが、伝統を守ろうとするオーナー側の締め付けに嫌気がさし、仲田氏ら選手・スタッフ50人と共に、2000年に新団体「プロレスリング・ノア」を立ち上げる。元ディスコというホール「ディファ有明」に事務所と練習場を見つけ、日本テレビの放送権もノアが得ることになったが、昨今の格闘技ブームの影響もあってか、今年3月いっぱいで55年間続いた地上波のプロレス放送が打ち切りになってしまった。そうした厳しい状況下で、社長である三沢氏がリング上で亡くなってしまったのである。
ノアは今後も三沢社長の意志を継ぎ、興行も予定どおり続ける予定だという。残された選手とスタッフが、この苦境にいかに立ち向かうか、ぜひ注目していきたい。 (て)
Posted by 北方ジャーナル at 16:24│Comments(0)
│ニュース
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。