2009年04月20日
ラジオと雑誌と週刊新潮
本ブログで記者たちが好き勝手に予告(?)してくれていた旭川の「FMりべーる」に出演してきた。パーソナリティは日頃本誌が取材などでお世話になっている医療法人元生会理事長の森山領さん。聞けば、その日は何と446回目の出演とのことで、週イチのペースだから、かれこれ10年近くもラジオとかかわってきたことになる。
現地のスタジオで会う約束したのは早朝6時半。いつものようにニコヤカに現れた森山理事長と大雑把に打ち合わせると「後はぶっつけでいきましょう」と余裕しゃくしゃく。聞けばキューが出てからトークを考えているといい、自然体でマイクに向かっているのが印象的だった。この森山理事長、自他ともに認める「シンガーソングドクター」でもあり、音楽仲間とCDを出したり、自らの医療グループのCMソングまで歌ってしまう多才なお方なのである。
それはともかく、ラジオ出演は意外に面白かった。リアルタイムに言葉を電波に乗せるという行為もさることながら再放送されたサイマルラジオのストリーミングを聴いた時、自分を客観的に眺めることができたのも笑えた。本誌の存在を伝えることにもなる。ぜひ、ラジオ関係者の皆さん、また何かあったらお呼びください(笑)。
ところで、特に雑誌メディアに身を置くものにとって最近発売された「週刊新潮 4月23日号」は、一種の保存版になるだろう。ご存知のように「朝日新聞阪神支局襲撃事件」に関して“実行犯”の手記を4週にわたって掲載した同誌が誤報を認める編集長レポートを発表したのだ。10ページにわたる詳述。取材の端緒から掲載へのプロセス、そして事実の綻び発覚から謝罪まで──。早川清編集長は次々号で交代するという。事実上の引責辞任であろう。
一読した。まず、この記事自体はなかなかの労作という印象。だが正直釈然としない気持ちも残った。まずタイトルが「週刊新潮はこうしてニセ実行犯に騙された」という被害者を印象づけるものであること。これはかえってマイナスだった。間違いをアナウンスすることが前提なら、メインタイトルは「週刊新潮はこうして誤報するに至った」が馴染む。
さらに伝えられるところでは、全面降伏したはずの週刊新潮はいまだに朝日新聞などに対して正式に謝罪していないという。これも常識的には理解しにくい。あの「スクープ」が伝えられることによって、最も誰が傷つき、誰が大きく被害を受けたのか──。仇敵だろうが同業者だろうが、主義主張が違おうが、ここらへんに対する想像力が欠けているとすれば、残念と言わざるを得ない。
誤報は確かにあり得る。本誌も他人事ではない。意図的に事実関係が捏造されたりねじ曲げられたりすることの悪影響についても論をまたない。今回のラジオトークでも、そこらへんの話は結構盛り込んだ。だがとにかく何より大事なのは、ミスが分かった時の対処だ。
私も含め自らの過ちというのは認めたくないし発表したくないものだ。しかし、事実を伝えるのが使命であるメディアが、その基本を損ねた場合は言い訳はきかない。率直に誤報を認め、その間違った影響力を回収しなければメディアとしての存亡にかかわることになる。
食品加工の偽装問題にも似ているところがある。消費者を裏切った場合、徹底的な製品回収は、その会社の基本的な責務だ。で、週刊新潮はどれだけ「その間違った影響力を回収できた」のか───。
にしても、今になって考えてみれば大手週刊誌と記者たちを手玉に取ったかの島村氏は、大したタマであり役者だ。芝居とウソの証言を最終的に見破られずに小遣いをタンマリもらい、同誌に生活の世話をさせ、とうとう手記掲載までこぎ着けたのだから。
正直、版元である新潮社がなにゆえ4週連続で掲載を容認し続けたのか。これもよく分からない。
メディアが内包する危機を呈示して見せた今回の事件。教訓とするべきは本誌だけではあるまい。(く)
それはともかく、ラジオ出演は意外に面白かった。リアルタイムに言葉を電波に乗せるという行為もさることながら再放送されたサイマルラジオのストリーミングを聴いた時、自分を客観的に眺めることができたのも笑えた。本誌の存在を伝えることにもなる。ぜひ、ラジオ関係者の皆さん、また何かあったらお呼びください(笑)。
ところで、特に雑誌メディアに身を置くものにとって最近発売された「週刊新潮 4月23日号」は、一種の保存版になるだろう。ご存知のように「朝日新聞阪神支局襲撃事件」に関して“実行犯”の手記を4週にわたって掲載した同誌が誤報を認める編集長レポートを発表したのだ。10ページにわたる詳述。取材の端緒から掲載へのプロセス、そして事実の綻び発覚から謝罪まで──。早川清編集長は次々号で交代するという。事実上の引責辞任であろう。
一読した。まず、この記事自体はなかなかの労作という印象。だが正直釈然としない気持ちも残った。まずタイトルが「週刊新潮はこうしてニセ実行犯に騙された」という被害者を印象づけるものであること。これはかえってマイナスだった。間違いをアナウンスすることが前提なら、メインタイトルは「週刊新潮はこうして誤報するに至った」が馴染む。
さらに伝えられるところでは、全面降伏したはずの週刊新潮はいまだに朝日新聞などに対して正式に謝罪していないという。これも常識的には理解しにくい。あの「スクープ」が伝えられることによって、最も誰が傷つき、誰が大きく被害を受けたのか──。仇敵だろうが同業者だろうが、主義主張が違おうが、ここらへんに対する想像力が欠けているとすれば、残念と言わざるを得ない。
誤報は確かにあり得る。本誌も他人事ではない。意図的に事実関係が捏造されたりねじ曲げられたりすることの悪影響についても論をまたない。今回のラジオトークでも、そこらへんの話は結構盛り込んだ。だがとにかく何より大事なのは、ミスが分かった時の対処だ。
私も含め自らの過ちというのは認めたくないし発表したくないものだ。しかし、事実を伝えるのが使命であるメディアが、その基本を損ねた場合は言い訳はきかない。率直に誤報を認め、その間違った影響力を回収しなければメディアとしての存亡にかかわることになる。
食品加工の偽装問題にも似ているところがある。消費者を裏切った場合、徹底的な製品回収は、その会社の基本的な責務だ。で、週刊新潮はどれだけ「その間違った影響力を回収できた」のか───。
にしても、今になって考えてみれば大手週刊誌と記者たちを手玉に取ったかの島村氏は、大したタマであり役者だ。芝居とウソの証言を最終的に見破られずに小遣いをタンマリもらい、同誌に生活の世話をさせ、とうとう手記掲載までこぎ着けたのだから。
正直、版元である新潮社がなにゆえ4週連続で掲載を容認し続けたのか。これもよく分からない。
メディアが内包する危機を呈示して見せた今回の事件。教訓とするべきは本誌だけではあるまい。(く)
Posted by 北方ジャーナル at 09:05│Comments(0)
│編集長日記
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